意識現象=五感の存在が私が存在するための必要絶対条件。私とは意識現象があること。私とは感覚、感情を認識するもの。
釈迦 古代のインドでは苦行に堪えることが悟りレベルのバロメーターだった。結果ただの苦痛自慢大会になりエゴを強めることに。
どんな思考も認識の対象物でしかない。
龍樹 空の概念。釈迦の死後教えの解釈を巡り大乗、小乗に仏教は分裂。
物事の原因は解釈次第。世界は途方もない相互作用の上に成り立っており、その一部を切り取って語っても意味がない。それは物質の存在とて同じこと。すべてが繋がったドロドロの海。一切の言葉は何らかの価値基準に従って世界に引いた境界線。
否定によって無分別智を目指すがどうしても(私)だけは否定できない。そこで呪文の登場。経典は悟りの実践の書。
法家:韓非子
老子 学問をすれば日に日に知識が増え分離が強まる。だが道を目指せば分別が減り無為の境地にたどり着ける。行動や思考が自然にわき出るままに任せる。私に邪魔をさせない。
荘子 本来世界に境界などはなくそれこそが道だが、言葉を持ち込むことで境界が生まれる。
東洋哲学の真髄は嘘も方便。仏像拝む、念仏唱えるれば救われるは人を救うための嘘。戒律も欲望をくっきり浮かび上がらせるための嘘。欲望を自覚させる。そして価値を作り出していたのは自分自身であったと気付かせる。結果を重視。
禅とは東洋哲学の美味しいエッセンスを凝縮したもの。感情はただのそういう感覚、いいも悪いもない。脳の分泌物の働き。私の心などない。自分が思い込んでいるだけ。
喝を入れる=相手をビックリさせて思考を止める。
悟りを得た人=日常的な出来事や思考は自己に何も触れることができないと気づいている人。だからこそ起こるに任せ、体が動くに任せ、脳が考えるに任せる。