自称・ミュージシャンの本棚

シンガーソングライターむーすくりーむの読書メモ集。

派閥―保守党の解剖 /渡辺恒雄

[派閥と領袖]
(領袖の条件)
統率力、平均年間数千万円ほどの資金供給能力、政治家としての豊富な経歴、子分に対する面倒見の良さ、一定の政治思想を有していること
 
[派閥と政治資金]
戦前:大財閥→党首
戦後:大資本、大成金→個別政界実力者=直接
財界人に接して巨額の政治資金の提供を受ける者
 
戦後は財閥の解体と共に、保守党は新たな資金源として新興成金やいくつもの大会社か、せっせと多面的に金を集めなければならなくなった。これが幹事長のポストをより重要なものにした。財界から幹事長に流れる金がすべて会計簿にのり、政治資金規正法に則って届け出られるというのならそれほど旨味はないが、どこからともなく入り、どこからともなく出ていく不可思議なカネが相当額幹事長の手元に入るというところに、このポストの旨味がある。総選挙の際などは自派の議員には多く、他派の議員には少なくまき、場合によっては反主流派には全く渡さないということも可能。これが幹事長及び幹事長派閥のひとつの特権となっている。こうした際、多額を貰った議員が幹事長に対して恩誼を感じ、そしてこの機会を通じて幹事長も子分を養うことができる仕組みになっている。
 
幹事長というポストは財界からカネを集めるのに最も有利である一面、幹事長になるためには相当額のカネを集める能力を有するという条件が必要になる。(広川弘禅のような首相の完全なメッセンジャーの場合は別。)
 
川島正次郎は岸の分身のようなもので、岸の名前でカネを集めているだけに、そのばら撒き方もかつてないほど気前が良い。岸も幹事長時代にカネをばら撒き派閥を拡大させた。
 
(派閥解消運動)
各派閥の独自の政治資金ルートを絶ち、財界からの献金ルートを幹事長一本にしぼり、資金面で総裁独裁体制を作り上げることが真の狙い。
 
会社は〜百万、〜千万円単位になると献金の度毎に受け取った代議士から領収書をとる必要に迫られてくる。代議士は個人でそのカネを受け取ったことになると、それが個人所得になり多額の所得税を課されることになる。そこでそれを免れるために受取人を政治結社にするという妙手が生まれた。(石橋湛山後援会発祥)このような事情から自民党の中にいくつもの派閥が存在するという珍現象が生じた。ここで岸は各派閥に政治結社届を取り下げされる=派閥を解消させればそれだけ各派閥の領袖が献金を受け難くなると考えた。
 
資金源を多面化した方が多様な意見が政治に反映される?その意味で考えると、派閥解消運動の眼目とした資金源とその供給先の一本化は危険?
 
[派閥と選挙区制]
どんなに多くの財宝を持っていても、どんなに深い識見を持っていても、この日本で政治家となるためには選挙に打って出てかつ当選しなければどうにもならない。
 
日本では保守、革新の得票数はほぼ固定化しており、中選挙区制では革新派の票を奪うよりも同じ保守の方を奪った方がより確実に得票数を増やすことができる。このことが派閥の重要性、党内での各派閥の対立につながっている。
 
小選挙区制→中小政党の存続が不可能になり、党内で党幹部や党機関の決定に反対であっても、脱党することができなくなる。党から除名されれば落選は確実。次に党の公認決定がその候補者の当落をほぼ左右することになり、党首の独裁権を集中強化することにつながる。このように小選挙区制は党首の権力を強め、反対派を急速に消滅させ、反主流派の領袖を弱体化されるのに最も有効な方法である。
 
[派閥と猟官]
肩書は票を増やす。
 
幹事長など党三役の肩書より「官」や「大臣」の入った役職の方が有難がられることも多い。官尊民卑の弊風。政調会長を蹴って文相の座についた灘尾弘吉
 
(大臣と利権)
池田勇人が第一級の実力者に上り詰めたのは、大蔵大臣時代に財界に顔を売ったから。その気になれば国税庁官僚に意を含ませ、大会社の税務査察に手心を加えさせ、それによって多額の政治献金をせしめることも可能。また財政金融政策を左右することによって相場に半ば思うままの影響を与え、これを通じて関係業界に対して利益を与え政治献金を促進することができる。池田勇人がどんな方法をとったかは分からないが、彼の政界での実力の内容は、その膨大な政治資金を集め、保持する能力にある。
 
通産、農林、運輸、建設なども莫大な利権を生み出す椅子。
 
派閥内の序列を破壊する一本釣りによって党首の権力集中を図ることもできる。派閥の団結力を弱める。派閥内の対立を煽る。
岸内閣の例:石橋派→石田博英を一本釣り、大久保留次郎系との対立を煽り、石橋派を空中分解させる、石井派→副総理石井光次郎を閣外に追放し、石橋内閣で文相だった灘尾を再入閣させ、石井派全体の希望と序列を崩す、
三木派→三木を経済企画庁長官で単独入閣させ、松村謙三との対立を煽る。
主流派だった河野、大野派に対してもこの策を用いて分断を図る。
 
[派閥と政策]
派閥は必要悪。党内デモクラシーの確保と、党運営の効率化という効用。党首の独裁を防ぐ。
 
雑多な党の合同によっててきた自民党は多元的なイデオロギーを包含しており、何人かの領袖、多少の相違を持つ政策グループ、雑多な資金源、各種の圧力団体の背景などを持つのは当然のことでは?
 
(総務会)
冷飯組の溜り場。閣僚や党三役、常任委員長など陽の当たるポストにつけなかった者の不満なだめるため総務という肩書を与えるのがしきたり。
 
(政策審議会)
政調会内の機関、これも冷飯組の溜り場的な性格が強い。
 
(党首の独裁を阻止する方法)
党機関は民主主義組織ではない。
 
[官僚と政党]
官僚の政策立案、立法の技術的能力には、多くの場合、とても党人達の及ぶところではない。
 
[広川派]
かつては自由党内の最大派閥。
 
著者曰く、ゴミ箱から出て来た狸のような面相。
 
緒方竹虎との対立。吉田の寵愛ぶりに嫉妬。
 
三木武吉に乗せられ吉田を裏切る。
 
バカヤロー解散で佐藤栄作大野伴睦に全力を上げて追い落とされる。
 
吉田を裏切った広川に対する批判は政界内外を問わず厳しいもので、鳩山直系組からも薄気味の悪い異分子として扱われる。
「本当のところ広川が落選したので我々はほっとしているのですよ」石田博英
 
その後また当選して旧敵大野伴睦にゴマをすったりするが結局賀屋興宣に選挙区を追い出され落選。誰にも相手にされなくなる。
 
[岸派]
自由党脱党以来の譜代組と自民党の幹事長就任以来の外様組に別れる。普代組は特に有されず不満を持つ。「俺たちは所詮三河武士さ・・・」
 
官僚出身者が圧倒的に多い。
 
団結力に欠けており、秀才型の官僚出身者が多いので党人派のような戦闘力が足りない。
 
岸が政権を失った時どれだけの人数が残るか…?人の情は紙よりも薄い… 
 
[大野派]
白政会。「政策論や理屈をこねたい者は春秋会に来て頂きたい。芸能を楽しみ、酒を飲もうと思ったらこの白政会に集まりましょう。」河野一郎
 
最も団結力の強いグループ、こんなに会合が終始なごやかな雰囲気の派閥はない。
 
岸政権での副総裁時代あっさり派閥を解散。これは団結力が強い、元々政治結社として届け出ていなかったなどの点から特に解散によるデメリットがなかったため。これは大野伴睦政治結社届け出による小細工をしなくても必要な政治資金を集める政治力を有していたこと、また大野派には自分で資金を集める能力を有する自前代議士が多かったことなどによる。
 
大野派は内部で政策論議をしたことがなく、イデオロギー以外の人間的結合でつながっている。この意味で大野派は事務所を必要とせず、他派のごとく毎週一回の定例会合を開かなくても足並みが乱れない。
 
特徴:自前代議士が多い、領袖と陣笠の人間的結びが堅固、官職配分に当たっての徹底した序列維持、官職獲得にふるう政治力の力強さから来る子分達からの信頼、党人が圧倒的に多い
 
国民の権力的圧迫に対する肌身の抵抗を、反権力的皮膚感覚を代弁する存在としてこうした反官僚主義者のグループは必要であると考えられる。政党は本来官僚政治に抵抗するための庶民の機関であるはず。
 
左翼からの転向者が多い。官僚権力に対する反発。
 
[河野派 実力者の誕生]
実力者という言葉が盛んに使われるようになったのは保守合同前後のこと。それまでは保守党有力者のことは長老と呼んでいた。
 
金力から時には暴力までも駆使。 
あっしが電話一本かければ横浜の沖仲士が何百人でも押しかけてくる。院外団などがいくらいても、党本部を乗っ取るくらいわけありませんや…
暴力団関根組の親分とも盃を交わす。
 
複雑多彩な構成、派のほとんどの男が政界での喧嘩男として定評があり、一言居士で、良く言えば、行動力のある理論派。
 
行動欲のかたまり。まわりの迷惑を顧みず乱暴に走り回るので次々に敵を作る。だが鳩山は河野を重用したために、大野伴睦を始めとする鳩山派の幹部たちは鳩山の元を離れていった。
 
石橋政権打倒を目指し大野伴睦と同盟。
 
常に危険な断崖を行くような政治行動。政界賭博師。
 
[石井派 中間派の宿命]
緒方竹虎の後継者。
 
大野伴睦も、河野一郎も、三木武夫も、岸信介も、それぞれ二人、三人の手兵しかいない小親分の立場から、自力で今日の大派閥を作り上げてきた一代の成功者である。今日の彼らの所有する派閥は、彼らの辛苦に満ちた政治的労働と莫大な政治資金投資の所産である。二代目の相続人としての石井光次郎は労せずして、一派の所有者となった。これが、この領袖の、一般の目に映る何とはない頼りなさの原因である。
 
内務官僚出身者が多く、これはこの派の性格を、何となく暗い陰性なものにしている。灘尾弘吉など。同時に党人派の系列も内部に併在しており、絶えず内部対立している。石井光次郎自身は決断力に秀でた人物ではなく、この両派に対してもどっちつかずの態度をとる。
 
鳩山首相訪ソの際のグダグダの総務会長辞任劇。
 
きわめてゆるい結合の水曜クラブ。しかも他派との二重国籍が多く、離脱者も相次ぐ。利害打算の計算が早い岸に派閥の弱体さを見透かされ、第二次岸内閣では副総理の地位を奪われ、閣外に追われる。主流でも反主流でもなく中間派という態度が災い。
 
[池田派と佐藤派 官僚陣営の進出]
保守合同に参加するか否か。十三人衆の会合。結果佐藤栄作だけが党外に去る。子分の橋本登美三郎も殉じる。この時池田勇人との友情にヒビが入った。
 
池田はどちらかというと単純素朴、感情をストレートに表す。対して佐藤は絶対に自分の腹を人に明かさず、政界きってのポーカーフェイスと言われる。「池田は今まで陰で俺の悪口を叩いたことは一度もないが、君は俺に対する蔭口を絶えず流していたな」大野伴睦
 
31年末の総裁選を巡って亀裂は決定的に。それぞれが実弾を乱射して総裁争いを行い、旧吉田派の陣笠達さえも自分達の陣営に引きずり込んだ。30年近い友情も雲散霧消し、後に残ったのは醜悪な利害打算の爪跡だけであった。
 
派閥間の合従連衡の契機としてイデオロギーや政策はなんの意味もなしておらず、その時の利害打算だけが動機及び理由になっている。
 
[石橋派 孤独な勝負師]
東洋経済に拠る石橋湛山の資金源に限界があった、吉田内閣時代冷飯を食い続け要職につかなかった、自らの政治理念に忠実で謀略を好まず人心収攬のテクニックに巧みでなかったことなどから、石橋内閣ができるまで終始十名を超えないグループを脱しなかった。
 
儚い栄華、槿花一朝の夢
 
石橋退陣後の派内での紛争、大久保派対石田派 
 
徒手空拳で楽屋裏の謀略だけでのし上がってきた石田、吉田全盛期に叛乱軍青年将校といわれ、福永幹事長問題でワンマンにひと泡ふかせ、新党運動に成功し、党内最小派閥の石橋派をもって政権を獲得したという歴戦の武勇をやや過度にまで気負っているところがある。何度も負けながらはり続けて最後に大博打に勝ったギャンブラーのような自己陶酔感に耽っている面持がある。
 
個人的に親分石橋よりも多くのカネを石橋派議員に配る。
 
独善的な行動が過ぎ、親分石橋からついに叱責を受け、見放される。政界での石田株急速に下落する。夫人ムメ女史の逆鱗に触れたためという説もあり。石田の女癖の悪さや、金銭に絡む怒りらしい…
 
第二次岸内閣で閣外に追われる。佐藤栄作に接近しようとするもポーカーフェイスに騙される。ウィスキーを呷りながら「栄作にいっぱい喰わされた」と絶叫。
 
石田は権謀術数が過ぎたため年少の割に政敵を数多く作ってきた。総裁選で役職の空手形を乱発、大野伴睦に副総裁まで約束する。(案の定総裁選後はそんな約束をした覚えはないと白を切る。)彼にとって政敵は無数であり、信ずべき仲間は数えるほどもいない。おまけに永年の親分石橋の不興まで受ける。まさに策士策に溺れるの見本。
 
[三木派 保守と革新との間]
(三木と松村の珍奇な結合)
この二人は元来保守党内の左右両極である。
三木はいわゆる革新派としては珍しく、金集めのベテランであり、年少政治家の割に、古手保守政治家的な「寝技」が得意である。対して松村は金集めが不得手。
 
(四十歳で逓信大臣)
三木は国民協同党代表という小党代表としての立場をフル活用、政局収拾のためにコマネズミのように敏健に立ち廻り、社会、民主、国民協同党三党連立による片山内閣の成立を推進、若干四十歳二ヶ月で逓信大臣として入閣し、最盛期の全逓組合とスマートに渡り合って名を売った。
 
(小党根性)
小党根性とはキャスティングボードによる政治取引きの巧妙さに対して言われる批評。絶えず陽の当たる場所を歩いてきたその要領の良さが、この批評を招く。小党、小派閥の立場を最大限利用して、歴戦の保守政界の古豪を手玉にとることの手さばきの鮮やかさは、一面彼の頭脳の切れ味の良さを物語ってもいるようだ。
 
国民協同党→国民民主党→改進党)
国民協同党日本民主党野党=国民民主党、国民民主党新政クラブ農民協同党緑風会=改進党 三木武夫幹事長に選出される。
 
民主党の結成)
改進党は所詮追放解除になった翼賛政治のチャンピオンと、場合によっては社会党の右派と抱き合おうとする革新派の寄合い世帯なのでこれ以上強力になる見込みはなかった。
しかし自由党内の吉田鳩山の対立と造船汚職は、弱体改進党にとって天与の幸だった。
自由党を脱した鳩山系及び岸派の合同による民主党結成が、三木武夫を再び陽の当たる場所に出るチャンスを作った。鳩山内閣運輸大臣として入閣。
 
保守合同の際にはこれに大反対する。三木武吉大野伴睦といった三木の目からすれば旧時代の古手政治家に主導権を握られた合同劇の演出が気に喰わなかった。合同後の自民党の役職の顔ぶれは最も不愉快だっただろう。
 
保守合同三木武吉は合同後の政府与党人事ではゴネトク人事を排するとしばしば発言。明らかに三木武夫の排斥を意味していた。
当時三木は、自派の議員を集めて会合しては三木武吉大野伴睦ラインの保守合同を厳しく非難していた。それは保守合同に反対のデモンストレーションにより、次の場面での人事面で利益を得ることを狙うものともとれた。不平派懐柔のための役職分配を期待。
だが三木武吉はその言のとおり、三木武夫になんの役職も与えなかった。
 
(石橋擁立)
緒方竹虎三木武吉が世を去り、鳩山も2年で引退。再び三木武夫の檜舞台登場のチャンスが到来する。こうした時の見通しの良さにかけては天才的な三木武夫は、いち早く石橋湛山擁立の名乗りをあげた。石橋政権人事争いでは石橋が指名した大久保留次郎を強引に押しのけて幹事長のポストを獲得。
 
この総裁選の際、大野は河野と一時袂を分かち石橋擁立に廻った。そこで三木は大野との同盟を狙って、伴睦老私邸を訪ねたことがあった。だが大野三木会談な結果は良くなかった。開放的な性格な大野は、どこか陰性な、智謀家型の三木がその話しぶりからして気に喰わなかった。この会談のあと、大野がどうもわしは三木と気が合わんと洩らすのを、当時筆者は聞いたことがある。
 
(強引な居座り)
三木武夫のインテリじみた物腰に似合わないこの強引さは、石橋政権発足時の幹事長就任のいきさつにも遺憾なく示されたが、3ヶ月天下の石橋政権が終幕した後の幹事長居座りの際にも、再び示された。岸首相は川島正次郎を幹事長にする腹を決め、川島自身もそのつもりで永田町のグランドホテルをアジトにすでに実質的な幹事長の仕事を始めていた。だが三木は国会内の自民党幹事長室に陣取り、その年の7月に断行された内閣大改造の際にも、三木川島の二人は岸首相はの組閣参謀として連れ立って当内閣派の領袖間の意見調整に歩き、政界に話題を振りまいた。
 
(失敗した四者同盟)
幹事長の座は降りたものの、政調会長として引き続き三役の一角を占める三木。そして石橋内閣倒壊の頃から、三木は石田博英と共に、実はひそかに佐藤栄作に接近しようとしていた。その狙いはあわよくば、河野、大野勢力を岸政権の主流から退け、佐藤栄作、池田、三木武夫石田博英の四者同盟を作って岸政権の中枢部を握ろうというのだった。
しかし大野河野に見破られこの目論見は失敗する。本人は経済企画庁長官として入閣するが、子分は一人も入閣できない結果となった。またしても冷飯時代に入る。
 
(三木松村派の成立)
かつての改進党時代は松村、大麻といった追放解除組の保守派が主流を握っていたが、岸、石橋の総裁選時に主流派、革新派の北村派の大部分などが岸支持に走り、石橋支持に残ったのは三木派と松村派だけとなる形になった。そこで保守派の松村一派と革新派の三木一派とが同盟、やがて混然一体となって三木松村派としてまとまるようになった。松村は大物政治家ではあるが資金調達能力がなく、そこへ最近では老齢と病身が加わり、その上保守合同以来、他派の人事にケチをつけすぎたため、冷飯続きになり、今では余りにご隠居さん的な色彩が濃くなってしまった。こんな情勢から、金集め能力のある三木が次第に指導者的な勢力を増した。
 
合従連衡の天才)
三木の変転自在な行動の幅は余りにも広い。国協党時代にはある程度社会主義的傾向も見え、社会党の右派とならば手を握っても良いという態度を示していながら、国民民主党〜改進党へ進む頃には翼賛政治家の古手とも握手してきた。「吉田政権打倒」を旗印にして、鳩山勢力と同盟したことがあったかと思えば、今日では旧敵の吉田派池田勇人と同盟して、鳩山派正統の流れをくむ河野一郎と対立している。彼は春秋三国志の時代に生まれていたら、合従連衡の天才として名を残していただろう。
 
(三木派の性格)
三木の権謀術数的な性格はともかくとして、長所はその政策への熱意である。早朝トーストとミルクで朝食会をやり、学者グループを呼んでレクチャーを受けるような真面目さがある。
 
赤坂検番の近くに三木事務所を持つところなど、三木の財力の一面を示している。バー付きの大会議場、相当数の事務室があり、これだけ立派な事務所を持つのは、自民党内のどの派閥にも見られない。
 
三木も松村も私大出の生粋の政党人であり、官僚性の少ない点もこの派閥の特徴である。ひとり戦後早くから政界の陽の当たる場所を歩いた三木を除いては、保守傍流出身者が多く、元閣僚の経験者は極めて少ない。
石橋内閣時には自力で子分に椅子を与えた。3人を一気に入閣させ、彼の強引なやり口は各派の強い反感を買ったが、一面その政治力を示したものでもある。だが岸政権時には当初狙った政調会長留任もできず、一人の子分も入閣できないまま、自分だけ経済企画庁長官で入閣するという終末だった。
 
(不思議な単独入閣)
第二次岸内閣での三木の単独入閣には色んな見方がある。
1:一応政権与党の要職を占めていなければ、今後ますます党内での自派の発言力を弱めることになるとみて、不本意ながら入閣した
2:岸内閣を長命と見て石田とともに佐藤栄作に接近、当分岸陣営と妥協を続けていこうという腹から入閣した
3:自派の政治資金源を確保しておくためには自ら経済閣僚の地位を占めておく必要があると判断した
4:彼はいつも陽の当たる場所にいたがる傾向があり、今度も子分の入閣を犠牲にして自分の椅子を獲得した
 
長老松村は三木の入閣を快く思わずわ反主流派一般に、三木、石田は利己主義だとか、余りに策を弄しすぎるといった批判も起こっている。
 
(三木松村派の今後)
三木武夫は年齢的にも、各派領袖中最年少で、今日の局面から見ても、将来の宰相候補の一人ではある。特に自民党政権が今後大がかりな汚職とか、外交の失敗とか、財政経済政策の行き詰まりとかに逢着した際、彼の出幕が開くことになるかもしれぬ。
 
[大麻派 寝業師の終末]
ひとつの理念で動くのではなく、巧みに政権の間を泳ぎ回る男。
 
追放解除後、松村謙三らと新政クラブを作り、国民民主党に接近、これと合流して改進党に入る。重光の担ぎ出しに暗躍、改進党党首に据えることに成功すると自らは側近参謀として納まり、改進党主流派の長老となる。
 
鳩山重光握手のお膳立てに暗躍。それ以来鳩山の側近参謀然として構えるようになる。
 
鳩山引退後は東條内閣で一緒に閣僚であった岸擁立に動くが石橋に敗れる。その後岸政権の出現を待たずしてこの世を去った…
 
[芦田派 元首相の限界]
日本民主党総裁として一度は政権をとりながら、ついに満足な派閥を作り得なかった。
昭電事件連座、豊富な資金源を持たない、元首相の肩書に禍され党の要職に座れなかったことなどが原因。また、非妥協的かつ陰気な性格、政党生活の長さに比し、一向に抜けきらぬ官僚臭、そのために多くの場面で必要以上に敵を作り、強力な同盟勢力を持ち得なかったことが障害に。
 
戦後は鳩山、三木武吉らと結ぶが裏切って幣原内閣に入閣。その後自由党の幹事長、総裁の地位を望むが三木武吉の反対で潰される。
三木、河野らと対立した芦田は自由党を出て幣原の進歩党に合流、民主党の結党に参加してしまう。しかし今度はそこで幣原と対立。
民主党総裁になって幣原派を追い出すが昭電事件連座。その後後継総裁の犬養健とも対立。
 
芦田はこれまで事あるごとに敵を作り、仲間を失ってきた。彼の身辺には大野伴睦の持つ熱い人情味も漂っていなければ、三木武吉の持つ闘志のこもった策略もなく、鳩山や石橋のような、どこか底の抜けたような人の良さもない。領袖として必要な人間的なアジが全く欠如している。
 
[北村派 革新派青年将校団]
保守党の支持票は中年老人層及び地方農漁村の知識の遅れた層に多く、革新政党は組織労働者、都会サラリーマン、知識層に支持者が多い。
 
進歩党内の犬養健を中心とした若手インテリ代議士のグループ、新進会。他には北村、桜内、中曽根など。進歩党は日本民主党になるが、犬養健が追放され失脚、幣原と芦田の総裁をめぐった冷戦が始まる。新進会は芦田を擁立して代議士会や党機関で激しい行動を起こす。その行動の激烈さから青年将校というニックネームがついた。226,515になぞらえて。
 
総裁争いは芦田派が勝利。これに不満な幣原派、田中角栄、根本竜太郎ら13名が脱党し後に自由党と合流して、民主自由党となる。
この時の論考行賞の結果、北村が蔵相に起用される。しかし間もなく芦田失脚し、改進党時代まで長い冷飯時代が続く。
 
片山ー芦田政権時代を通じ、民主党国民協同党との提携が進み、国民民主党が生まれる。追放されていた犬養健が復帰してくるが、かつて自分を担いだ革新派グループに攻撃される。しかし国民協同党三木武夫一派と、進歩党以来の北村徳太郎一派との間での総裁一本化調整がうまくいかず、便宜的に楢橋渡を総裁候補に立てて犬養健と争うが犬養健が勝つ。ここで三木派と北村派に一回目のしこりができる。この後犬養健は勝利したものの民主自由党との合同を画策して吉田と通じ国民民主党を離脱するも、民主自由党内の幣原、大野伴睦の反対でしばらく一人無所属席で孤立することになる…
 
大麻、松村ら戦前派が復帰し合流した結果改進党が結成され、重光葵かわ総裁に就任した。革新派はこの追放解除組とも戦うことになった。大麻は三木派と北村派という革新的な保守党を作ろうという共通の思想を持った革新派を分断するために、三木幹事長を退陣させて川崎秀二を代わりに就任させるという策を講じる。案の定三木は幹事長を譲らず、三木派、北村派に2度目の亀裂が入る。
 
平和条約、安保条約に断固反対。北村徳太郎欠席、両条約に対して中曽根康弘棄権。これをきっかけに日本自由党を作って反吉田闘争を続ける三木武吉河野一郎と接近。これが後の民主党につながる。鳩山引退、三木武吉の死去の結果、河野派と北村派の提携は一層強まり、春秋会が生まれた。
 
[新興派閥群]
(賀屋派)
大蔵官僚人の大御所。大蔵省の池田勇人人閥を押さえ込めるのは彼だけとも言われる。が、池田とは親しい。思想は極めて右翼的だが、人柄は巣鴨時代の苦労もあってか温厚で包容力があり、資金源も豊富。
 
(一万田派)
かつて日銀法皇。ハンカチから雑巾になる努力が必要。金融マンの彼はギャンブルを嫌った。賭場に座らなかった彼に、賽の目は丁とも半とも出ようがなかったのである。
 
(藤山派)
藤山雷太の莫大な遺産を相続、そこに頼りなさを感じる。党人としての年季がない。党務の経験が少ない。  
 
外相としての手腕はあまり良いものではない。近く党務に廻りたいなどと洩らして幹事長か総務会長の椅子を考えているらしいが、金力だけで、党歴もないのに党三役のような重要なポストに簡単に廻れるように考えている点など、まさにハンカチである。
 
江崎真澄福永健司小沢佐重喜など屈強な党人を擁している。
 
政界の泥沼に出来るだけ身を汚さず、政権の最上層で宮廷政治を楽しもうとする横着さは、政党政治を知らぬからである。